
© 2025 Tatsuo Yamada
Current Exhibition
山田達男 写真展
『 息づかい 』
2025年3月25日(火) ~ 2025年3月30日(日) ※12:00-18:00(日曜17:00迄)
そこは人が立ち入るのを拒むような荒れた溶岩大地にあり、豊かな伏流水に恵まれ原始の森が広がっていた。真冬に強い風が吹き荒ぶ稜線では地表を這うように茂る樹木の合間から骸骨のような老木が顔を覗かせる。そんな人の手の入らぬ森に惹きつけられたのはなぜだろう。
静まりかえり水や風の音が聞こえるだけの空間に佇むと、自然が奏でるかすかな音とともに気配を感じることがある。その瞬間振り返ると何かの息づかいが聞こえ、張り詰めた中で徐々に際立つ気配を感じながら自分の感覚が研ぎ澄まされていく。
ある日、湿度の高い靄に包まれた森に突然薄日が差し込み、見上げると頭上の磐座とそれを囲む樹々が神々しく目に入ってきた。強風に倒れた大木は湾曲しながら光を求めて上に伸び、その幹を地表の苔が鮮やかに覆いつくした様子があたかも自然な光景で目に映った。溶岩台地では樹木が大きな岩にぐるりと根を回し、雨風に耐えながらずっとそこにあり続ける姿を捉えたくて、ぬかるむ藪の中をぐるぐる回りながらレンズを向けた。
人の手の入らぬ森は想像を超える長い時間をかけて今がある。そこでは地面を覆う落ち葉や朽ち苔むして土に還ろうとする倒木の上に幼木が芽を出し、周囲の植生や環境に強い影響を受けながらもそれぞれが均衡し命が繰り返してゆく姿がある。そして水を貯え呼吸し、二酸化炭素から酸素への循環を永々と続けてゆく。その息づかいは動物の肺呼吸のような動きもなく淡々としたものだが、その気配が私には確かに感じられる。
山田達男 やまだたつお
1956年東京都生まれ。現在千葉県佐倉市在住。早稲田大学卒業後株式会社ニチレイに42年間在籍、64歳で退社し現在は個人事業として経営コンサルタントと映像制作。写真撮影に本格的に取り組み始めたのは60歳を過ぎてから。国内・海外問わず森や大地など自然の様々な姿に畏敬を感じシャッターを切ることを大事にして作品制作に取組んでいる。2021年からGOTO AKI+池谷修一「写真の実践と研究」ワークショップに参加。アイスランドにはこれまで4回、約15,000kmをトヨタランドクルーザーで走り撮影を行ってきた。
個展
2023年11月「最果ての色 創られた形」キヤノンギャラリー銀座・大阪
グループ展
2023年 3月「写真の研究と実践II 第1回展」代官山AL
2024年 3月「写真の実践と研究 -第3期- ゼミナール展」代官山AL

© 2025 Kenshi Daito
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写真展 東京オルタナ写真部 #9「歴史/現前」
2025年4月1日(火) ~ 2025年4月6日(日) ※12:00-18:00(日曜17:00迄)
写真とは何か、作品とは何か。
この問いは写真作品を制作する者に常に現れ続ける難問です。この問題を言葉で考えようとすると自分にとってかけがえのない意味が失われていき、逆に自分の意味をつかもうとするとかえって意味のあることは何も言えなくなってしまいます。このような、最も重要な意味の芯が目の前から逃げ去っていく状況を、思想や美術では「不在 absence」としてテーマ化してきました。
しかし私たちは、作品表現は自分にとってかけがえない意味であることを手放さないでいたいと考えます。すなわち表現の現場は「不在 absence」ではなく「現前 presence」であると改めて明言したいと思います。
とはいえ、写真は「それはかつてあった」ことを指し示すメディアです。また、「美術」や「作品」は長い歴史の中で形作られてきた制度であり、その大きな背景と無関係に作品制作をすることはできません。この意味で写真作品は本質的に過去にあるもの、つまり歴史的な存在であり、自分が個人的に経験するいま現在の意味とは対極に位置するものです。
写真作品が宿命的にもつ過去という性質と、表現がつかもうとする自分のいまの固有の意味。この両者は鋭く引き裂かれていて、ひとつに統合することはほとんど不可能のようにも思えます。今回、私たちのグループ展は『歴史/現前』という共通テーマで、この問いに向き合いたいと思います。
東京オルタナ写真部
オルタナティブ写真は、アナログ写真技法による新しい表現を目指すムーブメントです。私たち東京オルタナ写真部はワークショップ、読書会、批評会、グループ展を通してこの古くて新しい写真表現に取り組んでいます。

© 2025 Shuhei Maeno
Upcoming Exhibition
前野周平 写真展
『 流 ru 』
2025年4月15日(火) ~ 2025年4月20日(日) ※12:00-18:00(日曜17:00迄)
私が子どもだった頃、母は海に連れて行ってくれた。
昼間の海は穏やかで、何もかもがゆっくりと流れていた。
母は夜の海にも何度か私を連れて行ってくれた。
そこは昼間の海と同じ場所とは思えないほど深く滑らかに黒い。
本質的に恐ろしいものが底に沈んでいるように感じた。
波打ち際にすら近づけない。
私は怖かった。
母はひとり、波打ち際へ進んでいく。
その後ろ姿はとても強く、そして遠かった。
*
母は歩けなくなった。
痛みも温度も存在しないものかのように、足の感覚がなくなってしまった。
*
ある夏の日、私は川にいた。
足を浸すと、とろみを帯びた水は私の足にやさしく絡みつき、
陽の光を受け水面は小さく輝いている。
目を閉じる。
目蓋の奥に届いた水面の瞬きは、徐々に私の視界を満たしていき、
足に感じる流れは、より細かく鮮明になっていく。
その場に留まっているのか、流されているのか、
私が流れを置いていっているのかわからなくなる。
ただ、静かな感覚に包まれるようだった。
ふと、あの黒い波打ち際に佇んでいる母の姿が浮かぶ。
あの時の流れの感触を私は知らない。
私はただ遠くからそれを眺めていた。
前野周平 まえのしゅうへい
1990年 鹿児島県生まれ
2012年 東放学園映画専門学校卒業
2012年 撮影部として、映画、ドラマ、CM製作に従事
2018年 フォトグラファーアシスタント
2021年 映像を中心に活動中